頑張るほど損をする職場で、私は“できる人”になりたくなかった
こんにちは、かんなろです!
私は数年前から「仕事ができる人になりたい」と思わないようになりました。
理由は、仕事ができる人になると損をするから。
早く終わらせれば、次の仕事を振られる。
ミスなくこなせば、「じゃあこれもお願い」と任される。
責任と業務量は増えるのに、給料は変わらない。
それでも仕事だからと頑張っていました。
そうして気づけば私は、“できる人”というより“都合のいい人”になっていました。
でも、これは社会に出てから突然感じた違和感ではありません。
長女として生まれた私は子どもの頃から、
「あなたならできるでしょ」
「お姉ちゃんだたら我慢して」
と言われ続けました。
泣きたいときに泣かず、譲りたくないものを譲り、面倒なことを任されても断らない。
“できる側”にいることは、褒められることでもありました。
でも同時に、楽ではないポジションでもありました。
私は怠けたいわけではありません。
ただ、頑張るほど背負わされる構造から、降りたかっただけ。
この記事では、なぜ私が「仕事ができる人になりたくなかった」のか、そして頑張る人ほど損をする働き方の構造について、私自身の体験をもとに書いていきます。
いつも「できる側」に回されてきた
私は、小さい頃から「できる側」に立たされることが多い子どもでした。
それは特別に優秀だったからではありません。
ただ、なんとなく“できてしまう方”だった。それだけです。
「お姉ちゃんなんだから」と我慢してきたこと
子どもの頃、何度も言われた言葉があります。
「お姉ちゃんなんだから」
楽しみにしていたお菓子を譲るとき。
理不尽なことで怒られたとき。
泣きそうになったとき。
「お姉ちゃんでしょ」と言われると、なぜか反論できなくなりました。
本当は納得していなくても、本当は悔しくても、“わかっている側”でいることを求められる。
我慢できる方が我慢する。
理解できる方が飲み込む。
それが、当たり前の空気でした。
できる方がやるのが当たり前だった
家のことも、面倒なことも、「あなたならできるでしょ」と任される。
小学生の頃は弟がまだ小さいから理解できました。
私が手伝ってあげないと、と。
でも、弟が成長して、当時手伝わないとと頑張っていた私と同年齢になっても、私と同じような手伝いは一切しないし、両親も頼みませんでした。
両親に聞くと、「だってあなたができるからいいじゃない」とのこと。
お姉ちゃんだったら当たり前なのかもしれないけど、私からしたらとても不平等で納得のいかない説明でした。
できるから頼られる。
しっかりしているから任される。
一見、ポジティブな評価のように見えます。
でも、できる=やる人
という前提がいつの間にかできあがっていました。
「やりたいかどうか」ではなく、「できるかどうか」で役割が決まる。
それが、私の中ではずっと普通でした。
褒められるけれど、楽ではなかった
「しっかりしてるね」
「頼りになるね」
始めはそう言われることが嬉しかった。
私が我慢して頑張れば両親が褒めてくれたり、喜んだりしてくれると子供ながらに
「もっとお手伝いをしよう」
「もっと勉強頑張ろう」
と取り組んでいました。
褒められるほど、期待される。
そして、期待されるほど、失敗しないように努力や工夫をする。
たぶん私はそんなに器用な人間ではないのだと思います。
勉強を頑張っても成績は平均より少し上くらい。
理解力や思考力もそこまで高くありません。
だからと言って「やらなくてもいい人」になることは、一度も許されなかった気がします。
そしてその構図は、大人になってからも、驚くほど変わりませんでした。
社会に出ても同じ役割を引き受けていた
大人になれば、この環境は変わると思っていました。
会社に入れば、評価は公平で、役割はきちんと分担されていて、頑張った分だけ報われる。
どこかで、そんなふうに思っていたのかもしれません。
でも実際に働いてみて、実家の構造とさほど変わらないことが分かりました。
仕事が早いと仕事が増える
お給料が発生しているからには、しっかり仕事に取り組みたい。
私は仕事をしながら、
「もっとこうやった方が効率が良くなりそう」
「こうしておけば、次の人がスムーズに取り組める」
など、バイトでも派遣でも正社員でも、自分の担当業務を早めに終わらせるように心がけていました。
効率よく、ミスなく、できるだけスムーズに。
すると決まって言われるんです。
「手が空いてるなら、これもお願いしていい?」
早く終わらせたご褒美は“次の仕事”でした。
逆に、ゆっくりやっている人の仕事が増えることはない。
むしろ、その人の分を私が一緒に手伝うことの方が多かった。
私はだんだん気づきました。
早く終わらせることは評価ではなく、余力とみなされる。
責任だけが増えていく
ある程度仕事ができるようになると、今度はこんな言葉が増えます。
「あなたが教えてあげて」
「その件、まとめ役お願いできる?」
「トラブル対応、お願いできる?」
信頼されている証拠なのかもしれません。
でも、給料は変わりません。
肩書きも変わりません。
変わるのは、“背負うものの量”だけでした。
気づけば私は、調整役、フォロー役、火消し役になっていました。
断れない自分がいた
本当は、断りたかったこともあります。
今日は余裕がない。
それは私の仕事じゃない。
正直、これ以上は抱えたくない。
でも、言えない。
子供の頃から言われ続けた「あなたならできるでしょ」という言葉はいつの間にか「できなかったら私に価値はない」に取り替わってました。
「できる人」という立場を自分から崩すのが怖かった。
期待を裏切ることが怖かった。
どこかでずっと、“できる側でいなきゃいけない”と思っていました。
そしてあるとき、はっとしたんです。
これ、昔と同じだ。
- できる方がやる
- 我慢できる方が飲み込む
- 頼れる方が背負う
環境は変わっても、私はまた同じ役割に立っていました。
私は“できない人”になりたかった
高慢な考え方かもしれませんが、私は何度も「できない人になりたい」と思ったことがあります。
サボりたいわけでも、評価を落としたいわけでもない。
ただ、“これ以上背負わなくていい人”になりたかった。
目立たない位置にいたかった
仕事は、それなりに普通にこなせればいい。
突出しなくていい。
頼られすぎなくていい。
「あなたがいると助かる」と言われなくてもいい。
ただ、自分の分だけを静かに終わらせて、定時で帰る人でいたかった。
でも私は、気づけばいつも「安心して任せられる人」の位置に立っていました。
本来それは喜ぶべき立ち位置だと思います。
けれど私にとっては、“追加で背負うことが決まっている席”のように感じていました。
期待されると逃げ場がなくなる
「あなたならできるでしょ」
「あなただから任せる」
この言葉は、信頼の言葉でもあります。
でも同時に、逃げ道をふさぐ言葉でもありました。
- できる前提
- 断らない前提
- 頑張る前提
一度そのポジションに入ると、少し疲れたからといって急に降りることはできません。
できる人が弱音を吐くと、「これくらいで疲れたの?」と驚かれる。
でも、できない人が弱音を吐いても、それは“想定内”で済む。
私はずっと、弱さを出しにくい立場にいました。
頑張るほど損をする感覚
そうやって働いていると、ふと思いました。
私の頑張りは、何に変わっているんだろう。
給料は変わらない。
働く時間も変わらない。
むしろ責任と業務量だけが増えていく。
早く終わらせても自由時間は増えない。
効率化しても余裕は生まれない。
頑張るほど、自分の負担が増える。
その構図に気づいたとき、私は初めてこう思いました。
私は、仕事ができる人になりたかったわけじゃない。
ただ、損をしない場所にいたかっただけなんだ。
“できない人”になりたかったのではなく、背負わされる側から、降りたかった。
そう思ったとき、やっと自分の本音に気づいた気がしました。
効率化すると損をする職場で気づいたこと
私はずっと、「仕事は効率よくやるもの」だと思って取り組んでいました。
無駄を省いて、ミスを減らして、できるだけスムーズに終わらせる。
それが正しい働き方だと信じていました。
でも職場によっては、それは搾取されるだけの損な役回りになること気づいたんです。
そんな職場では、効率化は報われない。
早く終わらせても自由にはならない
自分の担当業務を早く終わらせても、「お疲れさま、今日は早く帰っていいよ」とはならない。
頼まれた仕事が早く出来上がっても、「じゃあ、少し休憩してていいよ」とはならない。
代わりに、
「ちょっとこれ手伝ってもらっていい?」
「この資料もお願いできる?」
と、次の仕事が積まれる。
効率化して生まれた時間は、自分のものにはならない。
ただ、再配分されるだけ。
私と同じ業務の人は、私が終わらせた仕事をまだやってるから、追加の仕事はない。
それなら、急いで終わらせる意味はあるのだろうか。
そんな疑問が、心の中にじわじわ広がっていきました。
フォロー係に回される
仕事ができると判断されると、困っている人のフォロー役になることが多いです。
同じ業務をしていても、私の方が早く終わったら、まだやってる人のフォローに入る。
もちろん、仕事量は私が増えて、相手は減る。
もちろん助け合いは大切です。
でも、なぜかいつも「余裕がある人」が助ける側。
余裕をつくった人が、その余裕を手放す。
結果的に、常に忙しい人と、常にフォローする人が固定化される。
そして、フォローされる側の人の中には驚くほど成長しない人が一定数います。
半年前と作業ペースが同じだったり、質問が毎回同じだったり。
フォローする側の負担が一切軽減されない悪循環の出来上がりです。
構図はずっと同じだった
できる方がやる。
余裕がある方が引き受ける。
我慢できる方が飲み込む。
場所が実家から職場に変わっただけで、私の役割は何も変わっていませんでした。
こうやって仕事に対していろいろ書いていますが、私は怠けたいわけじゃないんです。
むしろ、仕事は効率化してさっさと終わらせたい。
でも、頑張るほど自分の負担が増える構造の中で、これ以上頑張りたいとは思えなかった。
効率化が自分の自由につながらない場所では、努力は“自己犠牲”に近くなる。
そのことに気づいたとき、私は初めて思いました。
私は、働き方を変えたいんだ、と。
私は怠けたいわけじゃない
ここまで書いてきて、もしかしたらこう思う人もいるかもしれません。
「結局、楽をしたいだけじゃないの?」と。
でも、違います。
私はサボりたいわけじゃない。
無責任になりたいわけでもない。
ただ、背負う前提のポジションから降りたかっただけなんです。
ちゃんとやることは、ちゃんとやりたい
自分の仕事はきちんとやりたい。
ミスなく、丁寧に、効率良く与えられた役割は最後までやる。
その気持ちに変わりありません。
でも、そこに
「ついでにこれも」
「あなたならできるから」
が積み重なっていくと、話は変わってきます。
最初は“信頼”からだったのかもしれませんが、だんだんそれは”当たり前の労働”になっていくからです。
努力が吸い取られる感覚
一番つらかったのは、頑張りが評価に変わるのではなく、負担に変わることでした。
早く終わらせる → 仕事が増える
ミスなくこなす → 責任が増える
気が利く → 調整役になる
努力が、自由にも収入にもつながらない。
むしろ、「もっとできるでしょ」と期待が膨らんでいく。
ポジションを降りたくても「他に人がいないから」と言われてしまえば降りれない。
私が早く終わらせること前提で仕事が振られることもありました。
そうしている内に、仕事を頑張ることが怖くなっていきました。
私は自分の人生を優先したい
私は出世したいわけではありません。
肩書きが欲しいわけでもない。
ただ、家に帰ったときに余裕のある自分でいたい。
大切な時間を守りたい。
心をすり減らさずに働きたい。
それだけです。
私は、仕事ができる人になりたくなかったのではなく、頑張るほど損をする場所で、これ以上“できる側”を続けたくなかっただけ。
怠けたいのではない。
ただ、自分のエネルギーをもう無条件で差し出すのをやめたかった。
だから私は、頑張りが自分に返る働き方を探している
「仕事ができる人になりたくなかった」
そう思っていた私は、本当は、できること自体が嫌だったわけじゃない。
頑張っても何も返ってこない構造が嫌だったのだと気づきました。
効率化が“自分の時間”になる働き方がいい
もしもの話をします。
- 早く仕事を終わらせた分、固定給は変わらず早く帰れるなら
- 工夫して効率化することで収入が増えるなら
- 頑張った分だけ、自分の選択肢が広がるなら
そんな仕組みだったら、私はきっと、「もっとできるようになりたい」と思えたはずです。
頑張った人が報われる場所なら、私は自分のベストを尽くして仕事に取り組むと思います。
問題は能力ではなく、構造なんだと感じました。
派遣という働き方を選んでいる理由
今、私は派遣で働いています。
正社員のように評価を競う場所よりも、役割が明確で、責任が限定されている場所のほうが、心が落ち着くからです。
出世しなくていい。
目立たなくていい。
自分の分をきちんとやって、定時で帰る。
それが今の私には合っています。
派遣先でも”できる人”と認定されてしまえば、仕事を増やされてしまうので、申し訳ないですが本気で取り組まないようにしています。
どうしても間に合いそうにない時だけ、頭をフル回転させてなんとか間に合わせるようにしますが、基本的には2日で終わる仕事でも、他の人が3日かかってるなら私は3日に合わせたスピードで仕事をするように調整する。
派遣だと、最低限の仕事をこなせば文句を言われることはないので、私は派遣で働く選択肢をとっています。
在宅ワークを目指している理由
もっと、自分の頑張りがそのまま自分に返ってくる働き方がしたい。
そう考えた時にたどり着いたのが、在宅ワークで稼ぐ方法です。
会社に属するタイプの在宅ワークは就業時間が決まっていたりして、普通の企業勤めとあまり変わらないかもしれませんが、クラウドワークスでの案件受注やアフィリエイトブログなどは、やった分だけ返ってくる仕組みです。
もちろん、全てが成功する保証はありませんが、それでも私は他人に余白の時間を搾取されるよりはマシだと考えます。
小さくてもいいから、努力が「自分の未来」に積み上がっていく感覚がほしい。
私は、仕事を頑張るほど負担が大きくなる場所ではなく、頑張るほど選択肢が増える場所にいたい。
仕事ができる人になりたくなかったのではなく、できることが自分の人生を削る方向に使われるのが嫌だった。
だから私は今、働き方そのものを見直しています。
それは大げさな話ではなく、ただ静かに、自分の人生の舵を取り戻す作業なのだと思います。
仕事ができる人になりたくないのは、間違っているのか?
ここまで書いてきても、心のどこかでまだ問いが残ります。
「向上心がないだけじゃない?」
「甘えているのでは?」
「本当は逃げているだけでは?」
私自身も、何度も自分にそう問いかけました。
でも今は、少しだけ違う答えを持っています。
問題は“性格”ではなく“役割”だった
私はできれば怠けたい。
でも、お給料をもらっているからには、その分の働きはしたいし、効率良く進めたいと思って取り組んでしまいます。
期待されるとそれに応えようと頑張るし、きちんとやらなければ気が済まない。
だからこそ、“できる側”の役割に入りやすかった。
でもそれは、優秀だからでも、強いからでもなく、ただ、引き受ける癖があっただけ。
性格の問題というより、ずっと同じ役割を続けてきた結果だったのだと思います。
もしあなたも、ずっと“できる側”だったなら
もしあなたが、いつも頼られる側で、気づけば調整役になっていて、頼まれたら断れなくて、「あなたならできるでしょ」と言われ続けてきたなら、疲れて当然です。
それが嬉しかったり、やりがいを感じているならいいのですが、負担に感じるならそこはあなたの居場所ではないのかもしれません。
私もまだまだ人生半ばなので、完璧な答えを持っているわけではありませんが、ひとつだけ確かなのは、
“できる人”でいることよりも、自分の人生を削らないことのほうが大事だということ。
もし同じように感じている人がいるなら、それはあなたが弱いからではない。
ずっと、できる側で踏ん張ってきただけなのだと思います。
さいごに
私は長い間、
もっと向上心を持つべきじゃないか。
もっと評価を求めるべきじゃないか。
もっと責任を背負える人間になるべきじゃないか。
と自分を責めていました。
でも今は、ただ“背負わされる側”を続けたくなかっただけだったんだと分かりました。
子どもの頃から、できる方がやる。
我慢できる方が飲み込む。
頼れる方が引き受ける。
その構図の中で生きてきて、そして社会に出ても、同じ役割を自然に選び、同じ疲れ方をしていました。
でも、もっと自分のために人生を使いたいと思うようになりました。
できることを証明し続けなくてもいい。
期待に応え続けなくてもいい。
誰かの便利な存在でいなくてもいい。
自分の分をやって、自分の時間を守って、自分の人生を優先する。
そういう選択をすることにしました。
もしあなたも、
頑張るほど損をしている気がする。
責任だけが増えていく。
「あなたならできるでしょ」が苦しい。
そう感じているなら、それはあなたが弱いのではなく、ずっと“できる側”で踏ん張ってきただけです。
私はこれからも、必要以上に背負わない働き方を選びます。
できる人になるよりも、自分を削らない人でいたい。
今は、それが私の答えです。
